ミッドセンチュリー期を代表するデザイナー アレキサンダー・ジラルドについて

デザイナー
スポンサーリンク
にほんブログ村 インテリアブログへ
にほんブログ村

ミッドセンチュリー期にアメリカのハーマンミラーで活躍したデザイナーと言えば、先日紹介したシェルチェアのイームズ夫妻、ジョージ・ネルソン、アレキサンダー・ジラルドの3人があげられます。

しかしイームズ夫妻、ジョージ・ネルソンと比べると意外と知られていないアレキサンダー・ジラルド。本日はそんなジラルドにスポットを当ててみたいと思います。

 

アレキサンダー・ジラルド(1907ー1993)


経歴

ニューヨーク生まれのフィレンツェ育ち。フランス系イタリア人の父とアメリカ人の母との間に生まれ、ヨーロッパにて建築を学ぶ。

1920年代後半:ニューヨークで建築やインテリアデザインの仕事を始める。

1940年代:イームズやジョージ・ネルソンらと出会い、共にミッドセンチュリー期に活躍。

1952年〜1973年:ハーマンミラーのテキスタイル部門でデザインディレクターを務める。

1952年にイームズらに推薦されて、ハーマンミラーのテキスタイル部門デザインディレクターに就任すると、それまで実用一点張りで無機質だったオフィスにポップな原色を使ったファブリックを登場させ、当時の世間をビックリさせた。

 

マハラム社のテキスタイル

現在でもジラルドのデザインしたテキスタイルは、1902年創業のテキスタイルブランドの老舗(現在はハーマンミラーに吸収)マハラム社にて多数残っていて、クッションなどのプロダクトとして、ソファや椅子の張地として購入することができる。

 

ブラニフ国際空港

ジラードの仕事の中で有名なものの一つが、ブラニフ国際空港のトータルデザインがあげられる。

ブラニフ・エアウェイズは1928年に創業された老舗の航空会社であったが、1960年代当時、経営難に苦しんでいた。

そこで1965年にファッションデザイナーのエミリオ・プッチとアレキサンダージラルドに協力を依頼し「the end of plain plane (退屈な飛行機の終焉)」という一大キャンペーンを行う。このキャンペーンでプッチが客室乗務員の制服をデザインし、ジラルドは飛行機の機体の色をピンク・オレンジ・イエローなど7色に塗装。手押しカートから機内食のスプーンや食器、コーヒーの包み紙まで約17000点ものデザインを手掛けたと言われている。

このキャンペーンの効果によって1960年代〜1970年代は最新のトレンドを発信する航空会社として世界の注目を集めるまでになった。

ブラニフ・エアラインズのその後は1982年に経営難から、一時的に全ての便の就航を停止。その後一時復活を果たすも、1992年に再び就航を停止し、その歴史に終止符を打つ。しかし現在も伝説のエアラインとして多くのファンから支持され続けている。

ラ・フォンダ・デル・ソル

テーブルウエアシリーズ 出典:ブルータス

1960年にジラルドが内装を手掛けた、ニューヨークのメキシコ風レストラン。

内装はもちろんのこと、食器やメニュー、サービスワゴンやマッチ、トイレの蛇口など細部に至るまでジラルドのこだわりが詰まった今や伝説となっているレストラン。

当時のテーブルウエアシリーズはヴィンテージ市場で特に人気で、ブルータスの特集「出会ったらマストバイなアイテム」として取り上げられている。

レストランの家具は友人であるイームズに依頼。ラ・フォンダシリーズとして有名で、デザインの特徴は低い背もたれ。ジラードのこだわりでテーブルと並べた時に、テーブルの天板から椅子の背もたれが出ないようにデザインされている。

レストラン内にテーブルを沢山並べても椅子の背もたれが見えないため、すっきりとした印象で、空間に広がりをもたらす効果を期待してのデザインであった。

 

ウッデンドール

ジラードはメキシコを中心にフォークアート(民芸品)に強い関心を持ち、蒐集家としても有名。そのコレクションは1万点を超えるとも言われている。

そんなジラードが自宅に飾るために自身でデザインしたものがウッデンドール。各国から蒐集した、フォークアートからインスピレーションを受けながら、デザインされたウッデンドールはユニークな表情や柄、そして色使いなどジラードの世界観を感じることができるコレクション。

ハンドクラフトのため、一つとして同じものがこの世にないのも人気の秘密


コメント