イームズ シェルチェアの誕生とチャールズの生涯

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イームズシェルサイドチェア 出典:ハーマンミラーHP

イームズシェルチェア

1950年に発売されたFRP(ガラス繊維で補強したプラスチック)を使用したシェル型のアームチェア。つづいて1953年に発売されたサイドチェアはミッドセンチュリーを代表する椅子として、そしてイームズの代名詞として世界でも最も有名な椅子となりました。

今回はこの椅子の誕生までを中心にイームズ、特にチャールズについて改めておさらいし、まとめてみました。


生い立ちから、レイとの出会い

チャールズ・イームズ

チャールズ・イームズ、フルネームは父親と同じ、チャールズ・オーマンド・イームズは1907年にアメリカのセントルイスにて誕生。

父親が58歳の時の子供であった。

当時一家の家計は苦しく、チャールズが10歳になった時には街の印刷屋に働きに出ていた。

以来土日や夏休みなどは、ドラッグストアや製鉄所、照明設備会社などで働きながら学校に通う苦学生であった。しかし高校生の時に働いていた製図事務所にて製図や設計の方法を学び、建築家を目指すきっかけとなるなど、チャールズの人生にとって決して苦しいだけの思い出ではなかった。

ちなみに父親はチャールズが12歳の時に他界。父親の残したカメラで写真を撮ることにもとても興味を持っていった。

1925年、18歳になったチャールズは奨学金をもらい、セントルイスのワシントン大学に入学。建築を学ぶことになるが、フランク・ロイド・ライトのモダン建築を慕っていたチャールズは、大学で教えていた伝統的な教育に従わなかったため、3年後に中退することになる。

フランク・ロイド・ライトの代表作 落水荘 出典:フランク・ロイド・ライトの生涯

1929年、大学で知り合ったキャサリンと結婚。翌30年には友人と建築事務所を設立するが、世界大恐慌の真っ只中であった当時のアメリカではほとんど仕事が回って来ず、敢え無く事業は失敗。

その後チャールズは家族をセントルイスに残し、メキシコへ8ヶ月の出稼ぎの旅に出る。

しかしスペイン語が話せない上、2度も刑務所に入れられるなど苦しい旅であった。しかしメキシコで出会ったエスニックな色彩や建築、フォークアートはその後の彼のクリエイションに大きな影響を及ぼすこととなる。

イームズ収集のこけ

ちなみにチャールズは晩年まで世界中の民芸品をコレクションしていくが、日本のこけしも収集していた。このためミッドセンチュリーファンの中で、こけしは今でも人気のアイテムの一つである。

メキシコから帰国後の1935年。チャールズは再起をかけて、ロバートウェルシュとともに建築事務所を設立する。

この時に手がけた作品が建築雑誌に取り上げられ、たまたまこの記事を読んだフィンランド人建築家エリエル・サーリネンの目に留まる。サーリネンは当時ミシガン州にある美術学校クランブルックの校長を務めていたため、1938年チャールズを特別研究員としてそこへ招聘した。

クランブルック美術学校でチャールズはエリエルの息子である、エーロ・サーリネンと出会い、意気投合し、共同でプロジェクトをおこなうようになる。

1940年にMOMAが主催した「住宅家具のオーガニックデザイン」コンペには共同で参加し椅子や収納家具、テーブルなど出品。第一席を獲得する。

当時アアルトのパイミオ・チェア(1932年デザイン)がアメリカでも知られるようになり、自由な曲線を低コストで量産できる成型合板技術が注目されていたが、二人がデザインした椅子はアアルトの椅子にはない、複雑な三次元曲面を実現するものであった。

背と座がシェル型の一体成型だったことも当時斬新でまさにイームズの家具の原点となる作品であった。

またその後妻となる、レイとの出逢いもここクランブルックで、MOMAのコンペの仕事をレイが手伝ったことがきっかけとなり、二人は1941年に結婚することとなった。

結婚後二人は新しい活動の場を求めロサンゼルスへ旅立つのである。

ロサンゼルスでの日々

レイとの結婚を期にロスへ移住した二人はアーツ&アーキテクチャー」詩の編集長であったジョン・エンテンザと出会う。彼は40年のMOMAのコンペでチャールズのことを知っていたのであるが、二人のために部屋を紹介するなどその後も二人を手厚くサポートしていった。

チャールズは引っ越すと映画会社MGMのスタジオで美術スタッフとして昼は働き、余った時間は自宅の仕事場で成型合板の研究に取り組みはじめた。

その年の暮れ、チャールズの自宅を訪ねてきた、友人の医師との会話のなかで、「骨折した足を固定するのにこれまで使っていた金属製の添え木が良くないので、成型合板で作ってみてはどうか」という話になり、サンプルを作成(レッグスプリング)。それを海軍に売り込みに行ったのである。

1942年にチャールズはエテンザの援助もあり、映画会社MGMの仕事を辞め、自身の会社、プライフォームド・ウッド社を立ち上げた。

海軍からは太平洋戦争が始まった時期でもあり、初回5000個のレッグスプリングの注文を受けることになったが、代金の支払いが遅れ、そうそうに会社は倒産の危機に陥る。

この危機を乗り切るため、チャールズは1943年にデトロイトの産業設備の製造メーカーであるエヴァンス社に事業を売却。エヴァンス社の部門として活動を続けることができるようになり、その後レッグスプリングは終戦までに15万個も生産されるチャールズにとって初の量産品となった。

レッグスプリングがきっかけとなり、戦時中チャールズは軍に協力し、共同で担架や航空機の操縦士のシートを成型合板で試作するなど数々の仕事をこなし、当時の最先端の技術、とくに合成接着剤に関する情報を得たことが、戦後の飛躍の原動力となった。

そして世界へ

戦後1945年の12月、チャールズはニューヨークにてこれまで開発してきた、成型合板の椅子やテーブル、収納家具や遊具など15点の試作品を披露する展示会を開く。

そこでプレスやバイヤーに混じり、出席していた、エリオット・ノイス(MOMAディレクター)とジョージ・ネルソン(ハーマンミラー デザインディレクター)と出会う。その後ノイスの持ちかけで、1946年MOMAにて個展「チャールズ・イームズによる新しい家具デザイン」展が開催され、各メディアから絶賛を浴びることとなる。

しかしチャールズのみに賞賛が集まることに違和感を覚えた優秀なスタッフが離れていってしまう。

ハリー・ベルトイア(金属彫刻家)、ハーバート・マター(グラフィックデザイナー)、グレゴリー・エイン(建築家)ら、いずれも後に20世紀建築・デザイン史に名を残す人物たちであった。

一方でジョージ・ネルソンはチャールズの仕事に大きなビジネスチャンスを感じ取り、当時ハーマンミラー社の社長であった、D・J・デプリーにチャールズと契約すべきであると強く進言。

まずは当時チャールズが所属していた、エヴァンス社から家具の販売権を買い取り、1949年には製造権まで買い取ることとなった。これによってイームズの製品は全てハーマンミラーによって製造、販売されることになったのである。

イームズの家具が大きく世に知れ渡るきっかけとなったのが、1948年エドガー・カウフマンJr.の呼びかけにより、MOMAが開催した「ローコスト家具国際コンペ」である。

このコンペには、戦後まもないこの時期にも関わらず、世界31カ国から3000以上もの応募作品があったと言われている。

このコンペにはその後デザイン史を代表する世界的なデザイナーが多く参加したことでも有名で、代表的には、収納家具部門にて受賞した、ロビン・デイ(イギリス)。

カンティバレー構造で有名な「チェスカチェア」をデザインしたマルセロ・ブロイヤー(ハンガリー)。

ワイチェアを始め数々の名作を残したウェグナー(デンマーク)。

ピルッカチェア、マドモアゼルチェアなどフィンランドを代表するデザイナー、イルマリ・タピオヴァーラ。

日本からは建築家の坂倉準三などが参加している。

コンペ出品時のイームズのパネルなど 出典:山内陸平 20世紀のデザインあれこれ

このコンペにチャールズはシェルチェアを中心にサイドチェアとアームチェアを出品し椅子部門でみごと2等を獲得し、製品化に向けた準備が始まる。

受賞後製品化の段階でシェル部分に戦時中にアメリカ軍によって開発された、FRP(ガラス繊維で補強したプラスチック)を採用。軽くて、丈夫、しかもローコストであったこの素材を採用することが出来たのも戦時中の軍との協業があったからと言われている。

シェルチェアポスター 出典:vanilla

このようにして、1950年ついに、アームチェアが、続く1953年にはサイドチェアが製品化された。ミッドセンチュリーを代表する名作であり、FRPを使った一体成型、量産が可能となったはじめての椅子。シェルチェアは、瞬く間に世界を席巻していったのである。

この時チャールズはあえてFRPのガラス繊維のテクスチャーを残すことにこだわったと言われている。このように素材の持つ特徴を目と手で直接体験できるようデザインし、素材や工法の特徴をできる限り外見に反映させることはチャールズの一貫したこだわりであった。

シェルチェア発売後

その後のチャールズであるが、1950年代後半にはローコストを目指した家具を作らなくなる。それは時代がキャデラック、マリリン・モンロー、マクドナルドと人々の欲望を刺激する商品や質より量、低価格を売りにした商品が持て囃される時代となっていったためである。

イームズの家具の仕事といえば、大量受注が期待できる公共事業か高価なオフィス家具が中心となる。1956年に発表された、ラウンジチェアやオフィス用としてヒットしたアルミナム・グループがそれである。

1960年代半ばからは家具の仕事は大幅に減り、映画や展示会のプロジェクトがメインの仕事となっていった。

その後、1978年8月21日、故郷であるセントルイスへの帰省中に心臓発作にて71年の波瀾に満ちた生涯を閉じたのであった。

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